修学旅行以来の京都訪問。
どこへ行きたいかも分からない心のまま、
まずはとにかく龍安寺へ。
(本当は西芳寺を訪れたかったのだけれど、往復葉書での事前申込を忘れていました。。)
石庭を眺める。
僕たちの生活では常に「動いているもの」が視界に入ってくる。
そして自分自身も常に「動き」、
とにかくせわしなく双方が動き回っている。
しかし、枯山水の石庭を眺めるときは、
「自分自身を固定」し、「動かない石たち」を見続けることになる。
この状況において意識が集中するのは、
「時の動き」と「心の動き」だ。
身体の動きも、石も止まっているが、
時と心は動き続ける。
段々と、心は「止まった身体と石」に歩調を合わせ始める。
他人の時間に合わせていた体内時計は、ゆっくりと自分の歩調に戻っていく。
そして実は「動かない石の庭」も、僅かだが刻々と変化をしていく。
石の影は時間と共に角度を変え、空を映した砂紋の色は変わっていく。
しかしその変化はとても穏やかで、柔らかい。
秒針のように、規則的に早く流れていく時間とは全く違う。
時間の流れが穏やかであればあるほど、
思考の粘度は強くなり、意識のフレームレートは細かくなる。
意識は「心の動き」を微細に汲み取り、
混沌としていた感情のもつれも整理されていく。
僕は近所の公園の池を眺めて、考えることが多い。
つまり、「自分を固定」し、「動くもの」を眺めている。
でも今回、石庭を眺めることで、
「自分を固定」し、「動かないもの」を眺めることを身体が憶えた。
この体験を経た変化はとても大きいもので、
やはり、前者よりも後者の方が「外的な情報量は少なく」、
「内的な情報量が多く」なる。
次の散歩は「自分の気に入った岩」を見つけることにしよう。
そしてその岩を眺めながら、
石庭を見た時の心の動き方との違いを検証し、
あの面積と、配置、色などについて考えてみようと思う。
あなたは動いているものを視ながら自分の心の動きを知るのか、それとも
動かないものを観ながら自分の心の動きを知るのか。
水なのか、風なのか、火なのか。石なのか。
それとも。