文化の継続性について。
長年、東京で暮らしてきた僕にとって、
それをあまり意識をする機会が少ない。
スクラップ&ビルドで発展してきたこの街は、
経済力の強いもの以外は同情されることなく姿を消していく。
他国や他県の新たな文化を取り入れては捨て、
文化の脱皮は益々速まっていく。
諸行は無常なのだろう。
それはそれで潔が良い。
個人で仕事を始めると、
毎月決まった額の給与が振り込まれる保証がある訳ではないので、
否が応にも毎日、毎日、自分自身の仕事と向き合うことになる。
「果たして、小さいながらもこの文化を残していくべきなのか。」
「もっと日々の生活に不可欠な仕事をするべきではないのか。」
「しかしながらこの先の未来、生活に必要不可欠な仕事なんて残るのだろうか。」
これは京都に限った話ではないかもしれないけれど、
バスや地下鉄で移動する時、
「もっと交通機関を利用して移動してくださいね。そうでないと我々の営業は立ち行かなくなってしまいます。現在、営業係数は98・・。」
という旨の張り紙を様々な掲示場所で見かけた。
間違いなく、こういう類の主張は東京では見かけない。
きっとこういった主張は江戸の町から言えば、「無粋」なのだろう。
しかしながら果たして、
「粋」な消費者がどれだけ存在するのかは甚だ疑問だけれども。
「吉祥寺の街にチェーン店が増えて、つまらなくなってきた。」
もう10年位前からこんな言葉を耳にするようになった。
吉祥寺だけでなく、東京の街を歩けば見た事のある看板ばかりが目に入ってくる。
自分事ながら振り返ってみると、
家計の支出先はチェーン店ばかりだ。
食べ物は、スーパーマーケット。
洋服は、大型ブランド。
この街の状況は、
僕の支出が作り上げたものだと言っても過言ではない。
購買は投票だ。
訳のわからない有象無象の政党に投票するよりも、
実質的に生活環境へ、強く影響を及ぼしていく。
チェーン寿司店やコンビニ店で、
店員が悪ふざけ動画をSNSにアップロードする事件が報道される。
もちろん、
各々の倫理感の欠如を第一に責めるべきではあるけれど、
機械の補助のような単純作業の連続に飽き、
仕事への充実感が薄まっている面白味のない現場なのだろう。
きっと危機意識を高めているチェーン店本社は、
生真面目にプログラミング通りに働いてくれるロボット達に仕事を任せていくだろう。
無人コンビニも試験的に始まり、回転寿司に店員がいなくなる日も近い。
きっと人は余っていく。
お金の投票先を間違えると僕たちの首は益々締まっていくだろう。
購買行動は投票だ。
「気配り消費」
「思いやり消費」
互いを想い合った消費活動がこれから大事な概念になっていくだろう。
とはいえ、狭い共同体でお互いの生活を想い合うのは、
また風通しの悪い面も出てくるだろう。
いつも大切なのは、塩梅。
自由すぎず、不自由すぎず、
常に思考しながらその時その時の塩梅を決めるしかない思うのです。
幸か不幸か、
社員の面倒を見切れなくなってきた企業が増え、
個人で事業を始める人口が増えている。
(何事もバランスが大事ではあるけれど、)
一人一人が自分の商売を持っていて、
活き活きと活動し、
販売と購買の意識がアップデートしていくことを願っています。